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第257回 無観客試合

3月8日、埼玉スタジアム2002でのJ1リーグ第2節、浦和レッズ対サガン鳥栖のゲームで、レッズサポーターが「JAPANESE ONLY」の横断幕を掲げ波紋を呼んだ。欧州のリーグでも時折発生する、人種差別の問題について、国際サッカー連盟(FIFA)は昨年5月の総会で「反人種差別、差別に対する戦い」が論じられ、FIFAのジョセフ・ブラッター会長は差別を『悪魔』と表現してその根絶を決議した。その矢先のJリーグでの同内容の問題発生に、今季からJリーグのチェアマンに就任した村井満氏は第4節の同スタジアムでの浦和レッズ対清水エスパルス戦を無観客試合とする裁定を行った。

村井チェアマンは元来、熱烈な浦和ファンで有名だったそうだが、就任にあたっては『熱烈なファンは今日で終わり』を宣言。1月に就任から開幕までの期間、"ピッチ内外のフェアプレーの徹底を指針とする"を掲げたが、外部に向けてのそのほとんど最初の仕事が浦和レッズに対する厳しい裁定となったのは何とも皮肉な巡り合わせとなった。しかし、その迅速な対応の評価は高く、浦和サイドも裁定を受け入れ、無観客試合の当日は正午から午後7時まで埼玉スタジアム公園への入場を禁じ、キックオフ前にはこの試合に登録された浦和の18名の選手がピッチに整列して、阿部勇樹キャプテンが差別撲滅宣言を行う等の行為で裁定に応えた。

今日の社会で問題発生の場合、求められるのはその対応力。今回のJリーグの危機管理は、欧州だけではなく近隣アジアでも散見される、アンフェアなこれらの行為への稚拙な対応に一つの指針を与え得たと思う。今季からセレッソ大阪でプレーをしているウルグアイ代表のディエゴ・フォルラン選手は、欧州のリーグで得点王、2010年W杯南アフリカ大会では得点王とMVPに輝いたまさに世界のトッププレイヤーだが、4月4日の朝日新聞の記事では「サッカーをする環境として日本はどうか?」の問いに『セレッソ大阪のサポーターは練習にもたくさん来てくれ、クラブとの関係がすばらしい。あと世界的に見てもJリーグほど多くの子どもや女性が来られるスタジアムはなかなかない。家族が一緒に見にいけるというのは日本が持つ最高の環境だと思う』と述べている。そのJリーグの環境に今回の出来事は衝撃的ではあったが、無事クリア出来た意味合いは大きいと思う。

アメリカの野球では今日では黒人選手の方がより多くプレーしているが、正式には1903(明治36)年に発足したメジャーリーグは当初有色人種排除の方針で進んだ。それから44年後の1947年にドジャースがジャッキー・ロビンソン選手を黒人初のメジャーリーガーとして昇格させた。しかし、黒人の選手とは一緒にプレー出来ないと白人選手の数名がチームを離れたり、チームメイトすら彼と同じテーブルで食事をしたり、一緒にシャワーを使うのを嫌がる雰囲気だった。そんな強い差別を受けながら彼は頑張り1949年ナショナルリーグMVP、首位打者1回、盗塁王2回。その後、野球の殿堂入りを果たした。1997年全球団は彼の『42番』の背番号を永久欠番として功績を称えた。彼の残した言葉の一つに"『不可能』の反対は『可能』ではない、『挑戦だ!』"がある。彼がスポーツの世界の中で果たした役割の大きさは計り知れない。

今年のアカデミー賞に輝いたアメリカ映画の"それでも夜は明ける"を観た。これは、今回のテーマの人種差別の原点と言うべき奴隷制度を描いた作品。19世紀のアメリカ南部の産業は数多くのアフリカからの黒人奴隷が支えた。広大な農地での綿花の栽培、摘み取りには人手が不可欠。作業中の老人が過酷な仕事で命を落とし、仲間が泣きながら唄うシーンはまさに黒人霊歌。歌でいえば世界中で唄われる"アメイジンググレース"もアフリカからの奴隷船の船長が作詞したもの、これらの悲しい歴史を知ることも差別の廃絶の一つの手段だと思う。そんな南部の富裕な豪農のイメージは名作の「風と共に去りぬ」の舞台と言えば、納得される方は多いだろう。南北戦争はリンカーン大統領の「奴隷解放宣言」が背景にあるが、人道上というより北部もまた労働力の確保が大きなテーマだったようだ。メジャーリーグやスポーツや音楽界での黒人の活躍は凄いが、アメリカの社会で黒人差別が解消したとはとても言えないのが偽りのない現状だ。今回は無観客試合から人種差別、奴隷制度まで話が膨らんでしまった。

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