第268回 熊本のスポーツ
この度、「第64回熊日賞」を受賞した。自分のことで、はたしてこのブログに取り上げるべきか逡巡した。しかし周りの勧めもあり、この賞を通して熊本のスポーツを改めて振り返るのも、意義あると感じて思いきって記述することにした。「熊日賞」とは同社の説明では、"学術、教育、文化、スポーツ、社会などの分野で長年にわたって活躍され、地域の発展に貢献された個人や団体に熊本日日新聞社が贈っています"となっている。昭和26(1951)年に始まり、今回で64回を数えるもの。
スポーツ部門での第2回の受賞者は"日本マラソンの父"と言われ、3度の五輪に出場した金栗四三氏。第3回は講道館の嘉納治五郎館長の愛弟子宇土虎雄氏。柔道はもとより相撲、陸上、水泳にも秀で、九州学院に奉職、のちに"ミスター熊本"と呼ばれた。7月11日に行われた授賞式で短いスピーチを求められた私は『金栗四三、宇土虎雄両先生は、今の若い人たちにとっては伝説上の大先輩ですが、私は若いころに声をかけていただき、特に宇土先生は永らく国体の熊本県選手団の団長を務められ、私が旗手の年もあり、いろいろとご指導いただきました。また、最近では恩師の先生方で水俣の白取義輝氏や済々黌の藤田八郎先生や井上元二先生、サッカー協会名誉副会長の緒方健司氏、前会長の荒木時彌先生のお名前もあり、これからは、その方々の言葉や教えを若い人たちに語り、つないでいくのが私の使命だと思っている』旨を述べさせていただいた。
熊本のお家芸としては昭和3、40年代の水泳や、バドミントン、ハンドボールが浮かぶが、やはり「尚武の国」としての熊本の柔道、剣道は際立ち、特に剣道は熊日新聞に掲載中の「新熊本の体力」の4月1日で、"昭和30(1955)年に京都で開かれた一般男子団体戦の第3回全国都道府県対抗大会。熊本は伝統の底力をみせつけた。先鋒・緒方敬夫、次鋒・石原勝利、中堅・一川格冶、副将・井上広義、大将・緒方敬義の布陣で臨んだ熊本は、トーナメント6試合を勝ち上がり、見事頂点に立った。緒方敬義と敬夫の兄弟と石原は旧制済々黌、一川と井上は旧制八代中で戦前から全国で活躍した剣士だった。同じ布陣で第4回大会、第7回大会で3度の頂点を極めた。その後、全国制覇を成し遂げた5人は県剣道連盟の重鎮として後進の育成に尽くした"とある。その成果は連綿と今日に受け繋がれている。
また、戦前、中学済々黌(現高校)は全日本中学生選抜大会など90の大会に出場。優勝35回(うち全国制覇10回)を重ね、昭和の熊本剣道史は済々黌が主役といわれたが、その名伯楽(人物を見抜く能力のある人)が、昭和34年、第9回の熊日賞を受賞の林田敏貞先生。昭和42年発行の熊日の「熊本の体力」によると、飽託郡天明村奥古閑生まれ、熊中(現熊高)から東京高師へ進み、宮崎師範に奉職。大正11年、母校熊中のライバルである済々黌に赴任。幾多の苦難を超え昭和6年についに済々黌は全国を制覇、2年後の昭和8年には文字通り黄金時代を迎えて、幾多の名選手を輩出した。この大会では個人選手権も行われ、前述の緒方敬義は14人抜きの全勝でみごと個人選手権のタイトルを獲得した。
数日前、友人たちと阿蘇の俵山近くで会食のあと、西原村桑鶴の「オーディオ道場」を訪れた。オーナーの片山昇さんが剣道家だった父上の道場を引き継いで開いたもの。すぐ裏手は以前よくプレーしたゴルフ場で、「オーディオ道場」の存在は知っていたが訪れたのは初めて。オーディオセットが雑然と置かれた不思議な空間。正確な数はオーナーも知らないということだが、連れの一人がABBAのgreatest hitsをリクエストすると、これまたあちこちにうずたかく積まれたレコードの中から、さほど時間をかけず見つけ出し、素晴らしいサウンドが流れ出した。そんな中で私は、マスターに剣道家の父上の話を聞きたく、林田敏貞さんの名前を出すと、『父も林田さんに教わりました』とのこと。立ちあがると奥の部屋に行き、やがて一冊の本をみせてくれた。タイトルは「剣道いろいろばなし」とあり、著者名は"剣道範士・林田敏貞"。私は熊日賞からほどない日時で手にした林田敏貞著を不思議な思いで見つめた。頁を捲ると『心を磨くには真剣的なことが一番近道である。生命の遣り取りといってはややオーバーだが剣道が祖先の遺産として残る限り、剣道の神髄は残しておきたいと思う。敢えて危険を望むものではないが、余り安全教育や勝負技に捉われると、剣道の特色が失われてしまう。修行の段階をもっとはっきりして危険を予防し、剣道の本質を生かしながら将来に備えて欲しい』の文章に心を動かされた。
私が大学を卒業後、就職をしてチームの育成に携わり、そこから後年はさまざまなスポーツイベント等に関わり、それが評価されての今回の賞。そのスタートとなった下通の思い出詰まった「大洋デパート」の建物が今秋に取り壊される。因縁みたいなものを感じる。私と済々黌高校でさらに中央大学で共に学び、大洋に就職した剣道部の一門幹郎君が昭和48年のデパートの火災で亡くなった。熊本のスポーツ界で最も輝く剣道にふれた拙文を彼に捧げたい。